【遊びの哲学】ホモ・ルーデンス|ホイジンガ ~ 絶対に「遊び」を軽んじてはいけないワケ ~

 

 

配当もあなたのです本日はオランダの歴史館ヨハンホイジンガのコモルーレンスを紹介
いたします
どんな作品かと言いますと遊びこそが人間活動の本質であることを示した世界的名著で
ございますビジネスパーソンはもちろんのこと
エンターテインメントスポーツ歴史に興味がある方
毎日がつまら
ない退屈だと悩んでいる方に特におすすめの一冊です微サピエンスというのは県勢人類
を学米であるラテン語で賢い人間を意味します
一方タイトルにあるほぼルーデンスは遊ぶ人間という意味のラテン語です
そして法人がは人間に取って遊びが極めて重要なものであるということ
頭を確信し人類に微ルーデンスという新たな定義を与えたのです遊びが単なる暇つぶし
や娯楽でないどなら私たち人類にとって遊びとは一体どのような意味を持つものなの
でしょうか本日はこの壮大な謎に挑んだ歴史的名作を皆様と一緒に読み進めていきたい
と思いますそれでは参りましょう
ヨハンホイジンガ
ホモルーデンスさあまずはこの動画の全体像からお示しいたします
はじめに庁舎である方五人がについて簡単に紹介を致しますソラードに本書の内容を
遊びは文化よりを振る優越性を証明したがる人間の欲望を遊びが失われた世界
というように3つのテーマに分けて紹介を致します
実際に読んでいきますとなかなか硬くて難しい内容なのですが丁寧に進めていきますの
で安心して最後までお付き合いいただければと思います
では早速著者について見ていきましょうヨハン行為人が彼は1870未練をランダー
北東部のフローニンゲンに生まれました
少年時代から語学や歴史が得意だった法人がは地元のフローニンゲン
大学に進むことになるのですがそこで言語学を学んだ後古代インド学
ヨーロッパ中世史というように駅私学の方向に研究対象を変えていきました
そして1915年オランダ最古の大学
ライデン大学の歴史学の教授となり就任してから4年後
中世の秋という作品を発表
します本書は中世ヨーロッパの人々の文化や思考形式について考察したものなのですが
これがなんか国にも翻訳されるほどのベストセラーとなりおい人がは歴史家としてその
名が世に知られるようになったのですそして1938年
彼が65歳の時に言語学宗教学歴史学などあらゆる学問の
専門知識を久慈市学者としての集大成として完成させた作品
それがホモルーデンスというわけです
さあそれではさっそく作品の中身に入っていきます一つ目のテーマは遊びは文化よりも
古いこれはほぼルーデンスの第一小の第1分をそのまま抜粋したものでありこの作品の
核となる文章です遊びは文化よりも古い
さあこれは一体どういう意味でしょう遊んでいたらそれが時間の経過とともに
文化に変容していくという話でしょうかこれだけではよくわかりませんのでまずは
読み進めていきましょう
子犬が遊んでいる姿を観察してみるといい
その楽しげなじゃれ合いの中には遊びとはいったいどんなものなのかが現れている子犬
は一種の儀式メーター身振りや通され互いに気を引きあったりする
仲間のみ
3をちぎれるほど噛んではいけないという規則も守っている
まるで恐ろしく起こっているかのようなフリをすることもあるただ何より重要なのは恋
のはこれら全てを明らかに楽しんでやっているということだ
では遊びとは一体何なのだろうかこれまで多く老学者がこの謎を解き明かそうと試行
錯誤してきたそう
してあるものは遊びをありあまる生命力の過剰を解き放つことだと唱え
またある者は遊びとは緊張から解放されたいという欲求から生じる行為だといった
このように遊びの機能については実に様々な解釈が行われてきたのだ
ただこういった考えに一つ共通して言えることがある
それは遊びとはある種の生物学的目的に役立っているという前提があるということだ
つまり何のために遊ぶのかという原因や目的を問題にしているのである
もちろんこういった考えは受け入れられるしいいたいこともよくわからだが
私はどうしてもあることを無視しているように思えてならない
それは遊びの持つ面白さだなぜ赤ん坊は喜びのあまり
あんなにも笑うのだろうかなぜギャンブラーは上列のままにのめり込んでしまうの
だろうか
なぜスポーツは何千という大観衆を熱狂させるのだろうかこういった遊びの持つ面白さ
はどんな
分析もどんな論理的解釈も受け付けないつまり面白さこそ
遊びの本質なのだはいここでと思います整理しますと遊びとは遊び以外の何かのために
行うものであるというのが従来の考え方
一方で遊びとは遊び以外の何かのために行うものではない
理屈ではなくてただ面白いから遊ぶんだというのがホイジンガの考え方というわけです
確かに大好きなゲームなど他人から見られたら全く意味の無いことに没頭しているとき
にそんなことして何になるの
意味あるのと言われても面白いからやってるんだとしか答えようがない気がいたします
つまりこの面白さこそ遊びの本質であってそれは人間だろうがどう打つだろうが同じ
ことなんだよと言っているわけですその上で彼は遊びには5つの特徴があるといいます
具体的には自由ら行動であること利害関係がないこと
間欠性と限定性を持っていること絶対的秩序があること
そして非日常的であることですここはとても重要なポイントなので画面にスライドを
出しながら順番に見ていきます
まず第一の特徴として自由ら行動等ありますが
要するに遊びのユーロはやろうがやるまいが本人の自由というお話です例えば鬼ごっこ
でもサッカーでも自分が楽しいと思えばやればいいし
興味が荒いとかい
歩きが出ないのならやらなければいいですと逆にやりたくないのに売りあり遊びに参加
させられたとしたらそれはもう自由ではありませんので遊びの定義から外れてしまうと
いうわけです
そして2つ目の特徴は利害関係がないというたんです例えば積み木でお城を作ろうとし
ている子供は親の喜ぶ顔が見たいとか
お小遣いが欲しいといったモチベー
で積み木をするわけではありませんただ単純に純粋にそれが楽しいからやってる
わけですつまり遊びというのは儲かるからとか
みんながやっているからとか何らかの必要性に迫られたり
物質的な欲望を満たしたりする目的のために行う行為ではないと
3つ目の特徴は完結制度限定性があるということですこれは趣味として行なっている
スポーツをイメージしていただくと分かりやすいと思いますサッカーでもフットサルで
も前後半合わせて何分というようにあらかじめ終わりの時間が設定されていますテニス
や卓球も同じです
何回か会ったらゲームセットという間欠性がありますさらに動ける空
がんもここからここまでというように限られていますつまり遊びとはこういった間欠性
と検定性が備わった空間の中で行われるものなのです
4つ目の特徴は絶対的秩序があるという点です
例えば友人たちと趣味であるサッカーを真剣に楽しんでいる最中に相手チームの選手が
手でボールをつかんで
ゴールまで走って行ったらおそらくその場の空気は凍りつく等の痩せつまりどんな
わずかなものであっても
膣錠違反は遊びそのものを破壊し無価値なものにしてしまうのです
また本書によると遊びには緊張感つまりやってみないと分からないという不確実性が
重要であると述べられていますもし遊びの中に1歳の父
所が保たれていなければその遊びの中には緊張感がなくなり
やっている方も見ていこうその遊びを遊びとして楽しむことができません
ですから遊びには必ず一定のルールが設けられているというわけですそして最後5つ目
の特徴は

日常的であることですつまり遊びとは世間の掟や慣習に縛られない日常から離れた場所
で行なわれるものであるというわけです
例えば皆さんも昔子供の時に秘密基地を作って遊んだことがあるのではないでしょうか
そこではビー玉がお金の代わりだったり葉っぱがお皿だったり明らかに日常とは離れた
世界観が存在していたはずですつまり遊びとは本来非日常的なものでありさらに秘密と
いう要素を混ぜ込むことでその面白さが増大するものなのですこのようにホイジンガは
遊びが持つ5つの形式的特徴を読者に示した後遊びと文化との関連性について話題を
広げていきます具体的には原子車
会の中で行われてきた際しつまり神々を祀る神聖な儀式を例にあげ古い文化的行事の中
に見出される遊びに関する考察が始まるのですではそこから続きを見ていきましょう
神々を祀る神聖な儀式はどこからどう見ても遊びの特徴をみている
実際その儀式は柵で囲まれた
とびの葉の中で祝祭として催されるつまり楽しさと自由
この2つが溶け込んだ空気の中で行われているのだ
そして限られた時間の中で独自の世界がさ黒囲いの中で成立する
しかしこの遊びが終わると同時にその働きまで消えてしまうわけではない
むしろそれは日常世界にまばゆい光を投げかけ
塾最後を祝っている集団に対して申請等遊びの季節が再び巡ってくるまでの安全秩序
繁栄を授けてくれるのであるはいここで留めます
つまり
神々を祀る儀式というのは真面目な文化的行事だけれどもそれと同時に遊びでもあった
んですよとさらに非日常的だけれども完全に日常から切り離されていたわけではなくて
そこで暮らす人々の安全や共同社会の繁栄を願うものであったんですよと言ってるわけ
です
ただこういった儀式の持つ真面目さという要素と
遊びという要素を並べた時にまじめさの色合いの方が
小井土言いますかどちらかと言うと儀式なので遊びではないんじゃないかという希望
いたします
それに対し邦人がは次のように持論を展開します遊びとも真面目
この両者の対立関係を詳しく観察すると
2つの言葉は決して同じ価値ではない
ないということがわかるはっきりと言ってしまえば真面目よりも遊びの方がより根源的
で序列の高い言葉なのがまず真面目の意味について考えてみよう
真面目とは一言で言ってしまえば遊びの否定だ
遊びではないものそれが真面目の意味するところであってそれ以上でもそれ以下でも
ないで
は遊びという言葉の意味についてはどうだろう遊びは真面目の反対
つまり真面目ではないものとはならない遊びという概念は何か独自の固有のものなのが
はいここで留めますなるほど
ホイジンガ遊びという概念を真面目という概念よりももっと深くて根源的なものとして
とらえているというこ
とかよくわかりましたその上で彼は次のように述べます
文化は遊びの形式と雰囲気の中で営まれてきた
この文化と遊びが重なり合った複合統一体の中では遊びの方が根源的な件処理あった
ものであるまた客観的に認識できる事実である
一方文化とはただ我々の歴史的判断
がこの与えられたものに対して名付けた名称でしかない
なるほど小難しいことを言っていますが要は人々が伝統だとか
文化だとか呼んでいるもの例えば経営術ですとか音楽ですとかこういったものは結局
遊びの中で発展し今の形があるんですよと言っているわけです
となりますと某通りあった遊びは分
文化よりも古いという1文が意味するところは遊びがやがて発展し文化という形に変貌
を遂げていくということではなくて
文化は遊びの中で発展してきたゆえに遊びは文化よりも夫根源的な概念であるという
本書の核心部分が見えてくるわけですただ芸術や音楽という分野であれば
確かにそうかもしれないと何となくイメージができそうですが
なんと彼はこの後遊びとは全く縁のなさそう等法律ですとか哲学のようなお堅い学問
領域に至るまで遊びという形式によって発展してきたと言うんです
さあここから面白くなってまいりますいったい彼はどんな考えを持ってそのような主張
しているの
でしょうかでは2つ目のテーマ優越性を証明したがる人間の欲望について見ていき
ましょう
子どもの生活から最高の文化活動リー至るまですべてを通じて一つの願望が働いている
それは自分の優秀さを認められ人から褒められたい
名誉を授かりたいという願望だこれは
個人や集団がある目的や自己実現を果たそうとするときに強く働く人は何事についても
自分はよくやったと満足感を欲しがっているがそれが乱された時心のどこかで自分以外
の誰かと比べているものだ
ある分野の第一人者になりたいのなら自分が第12社であることをより
知らしめなければならないだろうこの自分の他者に対する優越性を証明するために
役立つものそれが競争という手段なのだ
はい心と思います人から認められたいとか人よりも優れていたいという人間の欲望
これを満たすためそれを証明するための手段として競争があるという内容でした
もし競争に勝ち自分が他社よりも優れていることが証明されれば心地よい
楽しい面白いという感情が湧いてきます
つまり
面白さを本質とする遊びにとって競争という概念は極めて重要な要素であるということ
なんです
ただそうなりますといやいや法律や哲学って
競争とは関係ないでしょうと思ってしまいますが本書によると実はそうじゃないらしい
ですさでは続きを見ていきましょう
一見したところ法律法令裁判の
世界は遊びとははるかに隔たって見えるだろう
知っての通り法律が関わる世界は個人や社会の死活問題に関わるものでありとても厳粛

しかしそれでも法律と遊びの間には切っても切れない関係性がある
例えば裁判所に訴えて自分の正当性について白黒ハッキリさせる時に行うそう
小これは誰がどう見ても遊びの持つ競技性という性格が備わっているかつて古代
ギリシャでは法廷での構想は一種の討論と見なされていた
それは神聖な形式を踏み厳しい規則に従いながら構想する両陣営が
審判によるさばきを請求する闘争であったら訴訟は競技であるこの考え方は後の時代の
産物でもなければ競技という概念を比喩的に用いているのでもない
訴訟であろうと何であろうとそこに競技性があるのならばそれは遊びという性格を帯び
ているのであるさらに言えば古代ゲルマンの方
週間では村の境界線を決める時をのを投げたり何らかの協議をしたりすることを日常的
に行っていた
また自分の主張が正しいかどうかを決める際には目隠しをした状態である特定のものを
触り
それが何であるかを当てることによって判断されたのだ
つまり力試しや賭け事のような行為によって
実際に法の裁きが下されていたのだよはい心と思います
つまりどれだけ軒宿で神聖なものであってもそこに勝者と敗者を決める競技性が
垣間見えたらそれはもう遊びですと言ってるわけです
もちろん本書では今は紹介したことを以外にも様々な事例を挙げ
遊びと法律との関係性について言及
有していますでは今度は哲学という学問領域にも競技性はあるのかという話になるわけ
ですがこれに対して法人がは哲学が誕生した古代ギリシャを例に出し次のように述べ
ます
我々が遊びという概念の輪郭を描こうとするときその円の中心に立つのが
ギリシャのソフィストたちである人前で巧みな話術を披露したい
ライバルの論客をコテンパンに打ち負かしてやりたいこの2つの大きな衝動は
ソフィストたちの間通りまさに現れているある時は自分たちを取り囲む見物人に自慢話
をおもしろおかしく披露し喝采を浴びたり笑わせたりしていた
またあると
期は言葉の力によって敵を論破しノックアウトの一撃をお見舞いしていたのだ
ソフィストたち自身もこういった自分たちの活動が遊びの性格を帯びていることをよく
自覚していたそんな彼らはまるで度は割芸人のような存在にも思えるが
ギリシャの教育文化を花開かせた存在でもあった
ギリシャの学
を発展させた背景にあるのは学校や塾といった職業教育ではない
外的な拘束から解放された自由な時間
それこそが人々に試作と研究の機会を与えその代表者がソフィストたちだったのである
はい心を食べますソフィストというのは知恵のある者という意味で金銭を受け取り
弁論術
自然科学などを教えるエンロンカー教育課のことを指しますそして自分の特技な話術を
披露しては大勢の人々から尊敬の眼差しで見られ肩で風を切って町を歩いていたといい
ます
そしたら運の悪いことにソクラテスという本物の賢者が現れ
ソフィストたちは次々と伸びきった鼻をへし折られてしまった
そんなお話をソクラテスの弁明の動画で詳しく解説をいたしました古代ギリシャといえ

哲学だけではなく政治学経済学心理学といった様々な学問が生まれたことで知られてい
ますそしてそういった学問がやがて巨大な西欧文明を築く一途
上になるわけですではなぜギリシャが西洋文明の水源地となりやだかといえば今
申し上げましたように自由な環境とソフィストたちの遊びがあったからなのです
ですからホイジンガは遊びという概念の輪郭を描こうとするときその円の中心に立つの
はギリシャのソフィストたちなんだと表現したわけです
はいそれでは最後
に3つ目のテーマ遊びが失われた世界に移ります
では行きましょう10発生器のうちから冷徹な功利主義党市民的幸福の理想などが社会
の精神の上に広がっていった
そして19世紀となりいよいよ文化家庭の中に遊びという機能が入る余地がなくなって
いったのだ
人間
社会や精神の中で経済的なことばかりを過大に評価し神秘というものを殺したその結果
文化は遊びの要素を失い
これまでよりも一層真面目さによって覆い尽くされていったのだ
スポーツの発達を見てもそうだろう組織化と訓練が絶え間なく強化され
純粋な遊びの内容がそこから失われた古代の文化の中では競技といえば常に神々に捧げ
られた
祝い事の一部であったしかし現代スポーツにおいてはこういった社会の構造との
つながり
あるいは何らかの実りをもたらす共同社会の精神性といったものがすっかり失われ
向きだ
の闘技品のだけになってしまった遊びはあまりにも真面目になりすぎたのだ
文化の精神とは無関係私たちは闘争本能を常に刺激されている状態にある
目や耳から飛び込んでくる情報が他人よりも優れていたい勝っていたいという競争精神
を絶えず揺さぶるのだ

工業的な競争は太古以来の根源的な聖なる遊びに属するものではなく偽りの遊びに過ぎ
ない神の文化とは何らかの遊びの内容を持たずには存続していくことができないのだ
したがって遊びを破ることは文化その頃を犯していることに等しい
また神の遊びとは特定
の主義思想の影響を一切受けないなぜなら遊びの目的とは自分自身の内側にあるものだ
からだ
その精神その気分は晴れやか羅漢撃であって行き過ぎた興奮ではないにもかかわらず
今日の社会は人々を過度に刺激する手段をもてあそんでいるそれは1基
遊びの形式をとっているが決して遊びの精神の現代的な表現ならと理解してはいけない
のだ
入っ心と思いますまず18世紀から19世紀にかけて
功利主義が広がって経済的なことばかりが評価されるようになっていったとありました

要するにこれは当時欧州で起こっていた産業革命6
を通させています技術革新が起こり人間社会の中心は労働と生産が占めるようになって
いきました
その結果人々の暮らしや文化の中から遊びが失われどんどん真面目ばかりが社会全体を
支配するようになってしまったと言っているわけです
またはこれまで競技と呼ばれていたものは五穀豊穣を願ったり共同社会
の繁栄の祈りが込められていたり真面目さの中にも遊びの要素が含まれていました
しかし今日のスポーツはただ真面目にどれだけ点数を取れるかとかどれだけ速いタイム
を出せるかといった
闘争本能に従うだけになってしまったと嘆いているのです
また近代から現代にかけて過激になっていった商業競争これ
はパッと見遊びのように見えますしかしこれはホイジンガに言わせれば
マネーゲームという名の偽りの遊びなどですこのゲームの世界では他の人よりも稼ぐ
ことがある種の正義正解となりあらゆるメディアや利害関係者を通じて人間の持つ競争
心が
かドリアをられる
そして人々の心や社会から遊びという概念が徐々に消えていきやがて文化の消滅という
悲劇をもたらすことになるのです
人間生活行為の方室人間存在の根源的なようたいとは一体何なのか
この問いに対し人間は遊ぶ存在であると結論を下した
21世紀さ
以来の文化しか同伴行為人が彼の言葉は遊びが失われつつある今の時代に必要な処方箋
なろうかもしれません
はいというわけで微ルーです以上でございます
彼がなしたでしょうかだいぶざっくりお話しましたけれども実際はもっと学術的で非常
に読み応えのある作品です
ご興味のある方はぜひーて
にとってみてください愛知編み全然話は変わるんですがほぼパティエンスという言葉を
ご存知でしょうか
これは苦悩をする人間という意味のラテン語でして以前紹介しました
ヴィクトールフランクルが作った言葉です人間は苦しみ
たヤム存在であるけれどもそれに耐えられる存在でもあるのだというまさにフランク
るらしい人間の定義と言えますそんな彼の代表作
夜と霧も大変素晴らしい作品なのでまだご覧になっていない方はぜひチェックしてみて
くださいこの動画が面白かった参考になったという方は高評価コメントなど頂けますと
嬉しいですまたチャンネル登録もよろしくお願い致しますではまた次の動画でお会いし
ましょう
ありがとうございました
[音楽]

この記事を書いた人